エリック・カール展
エリックカール展。最終日目前にして滑り込み。混みすぎてまともに見れていないけど、クレーやマティスにつながった瞬間に泣いてしまいそうになる💫 #ericcarle #setabi #星つなぎです
エリックカールが好きなものを平易な言葉にしているのがとてもよかった。エリックカールはモーツァルトが大好き!エリックカールは日本の絵本美術館を見てアメリカにも作った!エリックカールは。。。
エリックカールの作品の中にマティスとクレーが飾られていて、それを目にして涙が出た。わたしの好きな絵、ピカソ、マティス、クレーにカンディンスキー。それからマルグリッドにレオ・レオニ。マルグリッドはちょっとちがうけど、どれも母が小さい頃から見せてきてくれた本にいた絵たちである。わたしは根源的につながっている。そしてもちろんエリックカールも好き。あいふぉんケースぼろぼろだけどはらぺこあおむしだよ。
わたしのすきなもの、エリックカールのすきなもの。
星はつながって星座になる。
だからこそ、もう少し、引き上げてくれてもよかったなあと思わなくない。
メモ
版画集『ジャズ』より《コドマ兄弟》
《アフロディテの解剖学》
ソール・ライター展
@Bunkamura ザ・ミュージアム
ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター展
土曜の昼すぎは結構混んでいた。
写真展はTOPぶりだけれど、ソール・ライターはより「視線」を感じてよかった。かなりよかった。絵には視線や視点が介在しない可能性があるけれど写真にはいつも作者がいて、捻じ曲げられない現実があって、そして作者から現実に投げかけられる視線が存在する。
わたしは写真撮るの、へったくそなので、写真撮ってもぼやぼやってするのだけれど、なんでこんなに違うのだろう、今や誰でも撮れる写真の質が、強度が、圧倒的に違う。誰でも写真家になれる今、ほんとうに写真家になるのはどんどん難しくなっていく。本物の写真家の「強度」と「深度」がソール・ライターにはあった。
ちなみに大好きだなと思ったのは
私は、傘が大好きなんだ!
という彼の言葉の一節。たまんない。わたしも「傘が大好き!」なクチなので、うれしくてうれしくて。トップスターになったら傘モチーフでグッズ作ろうかしら。
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ソール・ライターを視たあとに観るこれはほんとうに最高だった。
色だろうか、艶だろうか、視線だろうか、言葉にし難いけれども通じているものがあって、心が揺らいだ。方やニューヨーク、方や中国。だけれども日常に巻き込まれたような視線が、逆説的に非日常で、同質に感じた。
空想夢想
この世界は「不快」を叫ぶ人がいたのならそちらに寄り添っていかなくてはならないのだろうか。えっじゃあ「これはいや!」「あれもだめ!」「よくない!」「害悪!」って叫んだ人の勝ちだろうか。もちろん全人類が快適で安全で幸福な世界が実現できるならそれでいいし、たしかに誰かの不快を解消できる形へと持っていく努力は必要だ。でもじゃあたった一人や二人の声のために何千何万の幸福を蔑ろにするのだろうか。あなたのなかで誰かによって何かが壊されてしまって、それで声を上げているのだろうけれど、じゃあその声で今度はまた違う誰かの何かが壊れてしまうよ。言論を制限しようとは思わない。けれどいつだって言葉は凶器で、負に転がった思想は次なる負を呼んで転げ落ちていく。わかったから、わかったから、何を話すのも自由だから、言葉は選ぼう。これは常に自戒を孕む。
堀部安嗣展 建築の居場所
@ギャラリー間
とてもよかった。来てよかったーって思った。
たまたま、館長とアートディレクターの森桜さんのギャラリートークに出くわして、珍しくわたしも時間に余裕があったもんだから聞いてきた。身近な人に語られる堀部安嗣は、そのまんまの人に思えた。あまり顔が出てこない人だから、不在を感じてしまうけど、ああ、いるんだなあと実感した。
堀部安嗣という人は、本当にそのまま、生と死を綯交ぜにして空間を作る。明るさだけが全てではない。
確かに、私や私たちが、学生時代に憧れるようなスカルパやアアルト、アスプルンドにカーン、ズントーなんかのすばらしい建築たちを踏襲して、北欧の光、西海岸の光、スイスの光、イタリアの光......とにかく美しくて切ない光を作る人だけど、それが確かに日本の光になっているところが堀部安嗣かなーと思った。憧れたまま真似っこ、ではない次元にいる。
繊細で丁寧で、やさしくて、豊か。
同時に、このような「すばらしい」建築に住むことができる人は本当に僅かだと思い知って泣きたくなった。展覧会場にあった映像はとても美しいけれど、どこか絵空事にみえる瞬間もあって、映画の中の「生活」かも、と思ってしまう。
写真も文章もスケッチも手書きの図面も、触っていいよと置いてある模型も、デザインされたインテリアも、素晴らしかった。展示構成も愛があった。うらやましかった。
言葉の呪いも鎧も一切合切
思考を洗練させればさせるほど言葉は尖って自分の胸を刺す。自分の胸どころか所構わずいろんな人を傷つける凶器にさえなる気がする。
あらゆるところで、わたしがわたしであることを選ぼうとした結果、見えずに踏み潰してきたものがたくさんあるんじゃないかと思って怯える。上り詰めたアイドルは、屍を越えてきた、叶わなかった夢の破片を踏みしめてきた、とは言うものの、わたしは見えないものを見ぬままに、自分より小さいものに無関心なままに、来たかもしれない。来てないのかもしれないけど。
言葉を飲み込む癖ができた。社会に口封じされている感じがする、と、勝手に思っている自分がいやな感じだ。社会のせい、って気持ち悪くないですか。言いたいこと言えばいいのに、言えないのは自分のせいだ。
理想や期待がないと落胆も感動もない そこにあるのは実体がただただかわいいという事実......ものづくりでもなんでもない!好きだったはずの何かに、一喜一憂することもなくなっていた自分にがっかりする。そう言葉にして、気づいてしまって、さらに悲しくなる。一度刺さったナイフは簡単に抜けない。
発見は革命だけど、発見以後は決して以前に戻れない。気づいてしまったら、気づかなかったふりをして生きていくことができない。
悲しいけど、、、悲しいけど。ずっと目をそらして通り過ぎていた部屋の扉が開いて風通しがよくなった気もする。これはこれでいいんだ、と開き直ってもいいのだろうか。(許可が欲しい)
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しっかし、顔の好きな男の、作るものが信頼できていなかった、という苦しみはすごいな。そして裏を返せば、こんなに信頼できていないのに、こんなにも好きだ。実体が好き。顔も身体も声も骨格も髪色も毛先も。いや、そもそもこの人は、センスなんて持ち合わせていなくてそんなところもかわいいんだからまあいいか......ってよくないよくない全肯定にすぐつながってしまうこわいこわいこわい
衝動買いの記録
衝動買いをした、って言った。
どんな種にせよ、本屋さんで立ち読みしているとこれはお金払って買わなければならない...!というものに出会う時があると思ってるんだけど今日は非常にそれが鮮烈なビビッだったので買って帰ります
— kiicha (@kieui4) 2016年10月14日
本を一冊、雑誌を一冊。それからCDアルバムを一枚。
本屋さんで立ち読みしていて、どうしようもなく衝動にかられることがある。むしろ、基本的にはそういうときだけお買い物するようにしているのだけれど、この間そんなことがあった。
ありとあらゆる雑誌に目を通して、宇多田ヒカルのテキストを読んだ。椎名林檎との対談、洋次郎との対談、様々あって、全部ぐっときた。これを手に入れないとだめだ、って思った。アルバムまだ聞いてないのに、友達がカラオケで歌ってくれたこととか毎日のようにテレビで流れてくる音とか、たまたま行き着いた宇多田のホームページで丁寧なフォントで歌詞が綴られていたこととか、ぜんぶ思い出してこの文字たちが欲しい、今すぐ欲しいって思った。
http://www.utadahikaru.jp/lyric/
表紙は福山雅治のSWITCH。映画監督のテキストなんかも盛りだくさんだった。そうだ、SCOOP!も早く観に行かなくては。終わってしまうかしら。
宇多田のテキストの、なにが欲しかったかって、「日本語を大事にしようと思って今回のアルバムを作った」というところだった。最近あらゆるインターネットに、感じ方は感じる側の環境や状況、心情によって変わってくるのだ、と書き連ねているけれど、わたしにとってはこの言葉がちょうど、いいタイミングの、背中を押してくれる言葉だった。日本語の美しいところが大好き。アルファベットじゃどうにもならない深さがあると思えるところが大好き。これはわたしが日本人で、その帰属に誇りを持っていて、愛していて、そして日本語は母語だからその深さが一番わかるってだけで、もしかしたらイギリス人は英語に深さを見ているのかもしれないけれど、それは今更どうしたってわたしにはわからないので、わたしはわたしの知っている愛すべき日本語が好きなのだ。そして、頼りにしている。
いつも作品を作るとき、作品を説明するプレゼンテーションのボードを作るとき、意識している。日本語で書こう、って。アルファベットで誤魔化してしまわないようにしよう、って。「concept」「site」「community」……たくさんある。使いやすくて、使ってしまいそうな、英語。それを否定はしないし、使うも使わぬも自由だと思うけれど、わたしはそのまやかしに負けてしまいそうなのだ。それっぽくなってしまいそうで恐れているのだ。わたしは日本語以上に英語をわかるわけがないので、マジックワードに引っかかりやすい。そういう意味で、日本語を大事に作品を作る、がいつも抱えているテーマである。
だから、だから。肯定されている感じがした。うれしかった。小さな接点でしかないけれど、これでいいかもって思えた。
それから、「道」と「花束を君に」が好きだった。特に、「道」は生きるとか死ぬとか、だれか大切な人の姿を描いていて、わたしが今時間を割いている課題にとても寄り添っていた。わたしが考えたいことを支えてくれる感じがした。今やテーマソングになっている。どんなにやりたいことをやっているとはいえ、追い込んでいるが故にどうしても心が弱くなるときがある。そういうときにこうやって縋ることのできる音と言葉があることがどんなに安心できることか。
雑誌を手にして、すぐ、ああこれは、アルバムを、実体として、つまりは円盤として手にいれなくてはならないなあと思ってCDショップへ行った。リリースされてから2週間は経っていたと思うので、後追いだけど、久しぶりにこんなに満たされた買い物をしたなあと思ったよ。聞きしにまさる、宇多田ヒカルはすごい人だ。やっぱりそうなんだな、と突きつけられたとある日の話でした。
ちなみに、マリーアントワネットの嘘、買わなくては!って思ったのはフリーペーパーで目にした時から一目惚れしていたからだと思う。まだ時間がなくて読めてないけど、わくわくしてる。
ちなみに、これ。日本語の話したあとでなんだけど、参考資料。