星座早見図

mapping of stars

贋作 桜の森の満開の下 パリ公演初日

ここに書くのひさびさだな。

 

初のNODA・MAP達成したので書きますやい。

 

NODA・MAP 第22回公演

贋作 桜の森の満開の下 パリ公演@国立シャイヨー劇場 Théâtre National de Chaillot/Salle Jean Vilar 

ジャポニスム2018公式企画

 

 

 

解らんかった。

演出、空間構成、ツワモノ揃いの役者の演技、凄まじくて、圧巻だった。のだけれど、コンテクスト芸みたいな演劇で(そういう演劇好きです)、それをパリに持ち込むことの意味とどれだけ届けることができているのか、ということに頭を回しすぎて肝心の内容から完全に置いて行かれた感じがある。坂口安吾履修してないっていうのも大いにあると思うが。

「掘りますやい、堀ちえみ」誰がわかるっていうんですか。

客層は日仏ハーフハーフという感じで、笑いは起きるけど、わたしと彼らが同じ笑いを共有している感じはしなかった。日本語母語バイリンガル向け、ないしは日本語の理解がかなり深いバイリンガルが一番面白く鑑賞できるはず。

戯曲を翻訳すること、日本語の綾や言葉遊びを落とさずに残すこと、文化背景のある単語を訳しきること。日本の現代劇を輸出するときの難所だと痛感した。

わたしは英仏もネイティブではないからわからないけど、英語のミュージカルをOrbで字幕付きで見るとき、ダジャレ的な訳の箇所は1つか2つに収まっているような気がする。主語動詞の整った言語体系故にだと思う。英語は単純で、削ぎ落とされた言語だ。一方どう考えても、日本語に含まれるコンテクストは多すぎる。特に語尾のパターンが多すぎると今回思った。あとは言い回し。言い方のクセ、というのかな。一人称なども。「〜〜ってな!」っていう語尾は外国語に訳せるのだろうか。「わたし」「あたい」「拙者」は外国語に訳せるのだろうか。

 

日本語について考える機会が多すぎて、こういうことばかり考えてしまう昨今。そういう機微がありのままに理解できることをありがたく思うような、「言葉」に満ちた戯曲であったなー。野田作品らしさ、なのだろか。

 

あとは情景も美しかった。満開の桜が真ん中にある構図、思い入れがありすぎる。人は桜のふもとで死ぬのだよな。そして布がかけられるのだ。わかりすぎる。シャイヨーの舞台は奥が深いし高さがあるので、プロセニアムとしての画角が大きいよなー。そこに紙吹雪が舞うのが最高だったのと、あとは布選びがうまいなーと。空の青布、桜の桃色布、幕間の金布。空気をふくむ造形まで設計されているようで、感動した。光は、逆光の金布と月夜の木漏れ日が美しかったな。

 

しかし、桜はピンク!というのは結構改めた方が良くて、もっと白に近い色になればいいのになーと夢想した。寒々しくて薄ら恐ろしい満開の桜は、たぶん白いと思う。

 

 

 

天海祐希の男役最高!

ままごと「わたしの星」

@三鷹市芸術文化センター 星のホール

 

 

そこには、消費されない少年少女がいた。眩しくて、儚くて、生きているなあという感じがした。消費されないで生きる高校生を見るのは久しぶりだったから、なんだかそれはそれで苦しくて、泣き出しそうだった。

 

 

10人の少年少女が板の上に立つ。誰かの旅立ちを、どうやって受け止めたらいいか考える。「わたしたちにとって2年は2年なんかじゃない。」明日わたしたちは9人になって、8人になって、7人になるかもしれない。来年、再来年、その次の年。同じ10人が、10人でいられるだろうか。一度しかない夏。大好きだから、ずっとこの人たちといたいから、だから早く離れなければ、という気持ちは痛いほどわかる。「この島は狭いからずっと2人でいられちゃうの。」わたしと、あなたが、近くにいたら、わたしはこの役割を負って、あなたはこの役割を負うのだろうなあと思う、ずっと。それ以外のことはやらなくてよい、という惰性が生まれる。「あなたはわたしがいなくてもなんでもできる人なのに、わたしがいるからあなたはなにもできない。」痛い。好きだから、あなたを思って、別れなければならないということ、この世界にはあると思う。「生徒会長、学級委員長、風紀委員長、図書館長...。長のつくものはなんでもやってきた。誰もやりたがらないから。」自分だって別にやりたくないのに、みんなに仲良くいてほしいから、楽しくいてほしいから、笑っていてほしいから、引き受けてしまう人。本当はやりたくないのに。本当は得意なんかじゃないのに。そして、本当にみんなが文化祭をやりたい、と思っているかも分からないままに、「みんな、わたしに付き合ってくれていたんでしょう、わたしが一人で騒いでいたのに付き合ってくれていたんでしょう。」言ってしまうのだ。意思決定の責任を負ってしまうと、何かを決めなければならないというプレッシャーに押しつぶされる。あなたとあなたとあなたとあなたが、みんな同じ人なんかじゃないのに、一つの選択肢に統合されなければならなくて、そんなことできるはずがないって分かっているから、誰かが無理しているのではないかと思って顔色を伺ってしまう。自信がないよね。「いつか一人になるのだから、一人にならなくては。」

 

 

「なんでできないって言うの?できるかもしれないじゃん」勝手に自分の可能性を閉ざさなくていい。「好き。好きなの。」女の子は女の子と手を繋いだっていい。「いつも笑っています。でもいつも楽しいわけじゃないよ。もともとこういう顔です。」無理しなくていい、けどずっと笑っていてもいい。「巻き込まれたんじゃないよ、自分で選んだの」自分の人生は、自分の選択の連続で、みんな自分の責任で生きている、わたしだって。「cosmic dance cosmic dance」歌って、踊って、円を描けば、わたしは泣いてしまいそうだ。tofubeatstofubeats

 

 

夏休みが終わろうとしている。八月が溶けた。別れを目の前にして、思うことのたくさんある舞台だった。10人とも、わたしだ。きっとわたしも、選ぶと思う、好きな人たち9人との別れを。

 

 

 

わが星

 

わが星を観た。何年か前に話題になっていた。

 

この世界は円環。

 

一分一秒を回して、日々を回して、地球を回して、生きている。

「世界が回った!」なんて慣用表現、どこかの界隈では日常語のようにして共通理解をもって使われるけど、あながち間違っていない。世界は一方通行に、前進する方向に、回り続けている。

 

そして自己と他者。

 

<わたし>と<あなた>は同じになれないということ。

わたしが投げかけた言葉はあなたに0.00いくつか秒後に届く。そのときあなたがまなざすわたしは、完璧に言葉を投げかけたわたしと同一ではない。リアルタイムだけど、そこにはいつも時差があって、完璧に生き写すことはできないなあ。

わたしを離れた言葉は、空中を泳いでいる。

 

 

・・・

 

 

わたしはもともと、大きな箱の、きらびやかな世界から演劇(というよりなんと呼べばよいのだろう、ミュージカルかショー)に入った人だけど、ここまで到達するんだなと思ってそれはそれでなんだか感慨深いものがあった。

 

 

・・・

 

 

頭の中で時報がなっている。歩む足が一定になる。一週間はこの音にとらわれる。

ルネ・ラリックの香水瓶

 

高崎市美術館

 

北澤美術館所蔵

ルネ・ラリックの香水瓶

アール・デコ −香りと装いの美−

 

井上邸を観に来たついでに。特別関心のあるテーマでもないのでつなぎようがないといえばないのですが、まあ先は長い人生ですから、この先何があるかわからないじゃない?

 

最終室の、アールデコがモダンへ展開した香水瓶は案外面白くて目を引いた。そして、同行者たちがこぞってその部屋で足を止める様子がわたしにはいたく面白くて、満たされた。何事にも深く関心を向けられる彼らは、いつもこうやって眼差しを向けているのだろうなあと思って、ジーンとくる。世界への愛だなあと思うのですよ、「これはおもしろくない」とつっぱねずに興味がなくても「見てみよう」という姿勢。

 

ちなみに、めちゃめちゃよかったです。レーモンドの井上邸。よい高崎でした。

ライアン・ガンダー −この翼は飛ぶためのものではない

国立国際美術館(NMOA)

 

RYAN GANDER -These wings aren't for flying

 

https://www.instagram.com/p/BTqhyihjqyxk6EoEyKbw6Gj0CeIP8PhM7qii5g0/

アートに疎い民としてはたいてい知らない人なのだけど、こういうふうにひとりやワンテーマを拾い上げてくれるイメージの美術館だ、、。毎度興味を広げて帰れる。

https://www.instagram.com/p/BTqhmkWjgs5qoQNFkbnF52hEDakq3uOe6USOWk0/

帰りがけは駆け込みでNMOAへ。前来た時にキュレーションに惚れ込んだので以来、大阪にきたら行くようにしている

 

これまた過去の記録で失敬。

 

いい美術館なのである。いつもわたしに新しい視座をくれる。いつしかは写真展を観に来たんだったかなあ。記録どこ。

 

ライアン・ガンダー、作品自体への理解は深くないけれど、ああ、これは、思考法やプロセスの話かもしれないと思ったし、別階の2作ずつ並べていく方式は、賢くてずるかった。星つなぎの話だと思う。与えらえた何かと何か。その間に存在する、「何か」。人間は、探してしまうし見つけてしまうし結んでしまうのだ。そういう、人間の性質の話だと思う。ましてや誰か作家という他者が二つ並べたもの。「意図」をこじつけてしまうものですね。

 

 

Open Space 2017 未来の再創造

@ICC

 

そういえば今年もオープンスペース初めしたので、ちょっと前のことだけど記憶掘り返しておく。

年々、蓄積を持って見ると、現代美術アーカイブが読めるようになっていってうれしくて足元見ながらステップ踏んでしまうね。

 

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本展は、うーん、いつもの方が刺激的で鮮烈な印象があったけど、今回は「弾道学」について引っかかったらしい。(メモを読みました)

事細かに書いていないので思い出せないけれど、これはジェンダーの話につながっていたはずである。

 

オーラ・サッツ《銃弾と弾痕のあいだ》《銃弾と弾痕のあいだで揺らめいて》

 

www.ntticc.or.jp

 

《銃弾と弾痕のあいだ》は,発射された弾丸などの移動と挙動に関する学問の一分野である弾道学と,初期の数値計算における女性の役割についての映像作品です.1946年にアメリカ陸軍が弾道計算のために開発した最初期のコンピュータ,ENIACのプログラミングには6人の女性が従事していたことが知られています.第二次世界大戦において,弾道研究に従事した女性の主な任務は,二つの既知のデータ(発射地点と被弾地点)から,その間の欠けているデータを推測することでした.作品は,高速弾丸写真,弾丸波画像などの特殊な映像やコンピュータのパンチカードなどを用いて,この二つの点,弾丸と穴,加害者と被害者,存在と不在,といったギャップをいかに読み解くかを考察します.なお,弾道学は,現在の宇宙開発にも応用されるなど,軍事利用に留まらない科学研究分野となっています.《銃弾と弾痕のあいだで揺らめいて》は,その二つの点を見る角度によって絵柄が変化するように,レンチキュラー・レンズを使って制作された作品です.

 

ICCやさしい。検索したら出ていた。インターネットありがとう。

 

実は作品自体は読み解け切れていないけれどこのキャプションの力でわたしの心がねじ伏せられた作品であった。

 

それではまた来年。