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星座早見図

mapping of stars

ナビ派展

@三菱一号館美術館

 

ナビ派印象派とちがうのは、「版画」だーというところ。とても「版画」。展覧会を追っていったら、答えあわせのように版画もあったし、浮世絵のオマージュも感じたので、たぶんわたしのこの感覚は合っているはず。

わかりづらいのは色彩つまりナビ派と思っていたのだけど、ナビ派といえど、その色彩にめちゃくちゃ幅があるということ。この色がナビ派、この筆がナビ派、と一概に言えないし、この人はナビ派ですって教えてもらわないと初心者のわたしにはちんぷんかんぷんだろうけど、こう、層が重ねられた色味が、版画......ってなった

 

薄っぺらい感想だけど忘れぬうちにメモ。

堀部安嗣展 建築の居場所

 

@ギャラリー間

 

とてもよかった。来てよかったーって思った。

 

たまたま、館長とアートディレクターの森桜さんのギャラリートークに出くわして、珍しくわたしも時間に余裕があったもんだから聞いてきた。身近な人に語られる堀部安嗣は、そのまんまの人に思えた。あまり顔が出てこない人だから、不在を感じてしまうけど、ああ、いるんだなあと実感した。

 

堀部安嗣という人は、本当にそのまま、生と死を綯交ぜにして空間を作る。明るさだけが全てではない。

確かに、私や私たちが、学生時代に憧れるようなスカルパやアアルト、アスプルンドにカーン、ズントーなんかのすばらしい建築たちを踏襲して、北欧の光、西海岸の光、スイスの光、イタリアの光......とにかく美しくて切ない光を作る人だけど、それが確かに日本の光になっているところが堀部安嗣かなーと思った。憧れたまま真似っこ、ではない次元にいる。

 

繊細で丁寧で、やさしくて、豊か。

 

同時に、このような「すばらしい」建築に住むことができる人は本当に僅かだと思い知って泣きたくなった。展覧会場にあった映像はとても美しいけれど、どこか絵空事にみえる瞬間もあって、映画の中の「生活」かも、と思ってしまう。

 

写真も文章もスケッチも手書きの図面も、触っていいよと置いてある模型も、デザインされたインテリアも、素晴らしかった。展示構成も愛があった。うらやましかった。

言葉の呪いも鎧も一切合切

思考を洗練させればさせるほど言葉は尖って自分の胸を刺す。自分の胸どころか所構わずいろんな人を傷つける凶器にさえなる気がする。

 

あらゆるところで、わたしがわたしであることを選ぼうとした結果、見えずに踏み潰してきたものがたくさんあるんじゃないかと思って怯える。上り詰めたアイドルは、屍を越えてきた、叶わなかった夢の破片を踏みしめてきた、とは言うものの、わたしは見えないものを見ぬままに、自分より小さいものに無関心なままに、来たかもしれない。来てないのかもしれないけど。

 

言葉を飲み込む癖ができた。社会に口封じされている感じがする、と、勝手に思っている自分がいやな感じだ。社会のせい、って気持ち悪くないですか。言いたいこと言えばいいのに、言えないのは自分のせいだ。

 

f:id:kieui4:20170221033318p:image

 

理想や期待がないと落胆も感動もない  そこにあるのは実体がただただかわいいという事実......ものづくりでもなんでもない!好きだったはずの何かに、一喜一憂することもなくなっていた自分にがっかりする。そう言葉にして、気づいてしまって、さらに悲しくなる。一度刺さったナイフは簡単に抜けない。

 

発見は革命だけど、発見以後は決して以前に戻れない。気づいてしまったら、気づかなかったふりをして生きていくことができない。

 

悲しいけど、、、悲しいけど。ずっと目をそらして通り過ぎていた部屋の扉が開いて風通しがよくなった気もする。これはこれでいいんだ、と開き直ってもいいのだろうか。(許可が欲しい)

 

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しっかし、顔の好きな男の、作るものが信頼できていなかった、という苦しみはすごいな。そして裏を返せば、こんなに信頼できていないのに、こんなにも好きだ。実体が好き。顔も身体も声も骨格も髪色も毛先も。いや、そもそもこの人は、センスなんて持ち合わせていなくてそんなところもかわいいんだからまあいいか......ってよくないよくない全肯定にすぐつながってしまうこわいこわいこわい

 

 

衝動買いの記録

衝動買いをした、って言った。

  

本を一冊、雑誌を一冊。それからCDアルバムを一枚。

 

 

https://www.instagram.com/p/BL5bqSFhMF9T0gkWNehWQBRsdGadkewWxC5Ep80/

買った

本屋さんで立ち読みしていて、どうしようもなく衝動にかられることがある。むしろ、基本的にはそういうときだけお買い物するようにしているのだけれど、この間そんなことがあった。

 

ありとあらゆる雑誌に目を通して、宇多田ヒカルのテキストを読んだ。椎名林檎との対談、洋次郎との対談、様々あって、全部ぐっときた。これを手に入れないとだめだ、って思った。アルバムまだ聞いてないのに、友達がカラオケで歌ってくれたこととか毎日のようにテレビで流れてくる音とか、たまたま行き着いた宇多田のホームページで丁寧なフォントで歌詞が綴られていたこととか、ぜんぶ思い出してこの文字たちが欲しい、今すぐ欲しいって思った。

 

http://www.utadahikaru.jp/lyric/

 

表紙は福山雅治のSWITCH。映画監督のテキストなんかも盛りだくさんだった。そうだ、SCOOP!も早く観に行かなくては。終わってしまうかしら。

 

宇多田のテキストの、なにが欲しかったかって、「日本語を大事にしようと思って今回のアルバムを作った」というところだった。最近あらゆるインターネットに、感じ方は感じる側の環境や状況、心情によって変わってくるのだ、と書き連ねているけれど、わたしにとってはこの言葉がちょうど、いいタイミングの、背中を押してくれる言葉だった。日本語の美しいところが大好き。アルファベットじゃどうにもならない深さがあると思えるところが大好き。これはわたしが日本人で、その帰属に誇りを持っていて、愛していて、そして日本語は母語だからその深さが一番わかるってだけで、もしかしたらイギリス人は英語に深さを見ているのかもしれないけれど、それは今更どうしたってわたしにはわからないので、わたしはわたしの知っている愛すべき日本語が好きなのだ。そして、頼りにしている。

 

いつも作品を作るとき、作品を説明するプレゼンテーションのボードを作るとき、意識している。日本語で書こう、って。アルファベットで誤魔化してしまわないようにしよう、って。「concept」「site」「community」……たくさんある。使いやすくて、使ってしまいそうな、英語。それを否定はしないし、使うも使わぬも自由だと思うけれど、わたしはそのまやかしに負けてしまいそうなのだ。それっぽくなってしまいそうで恐れているのだ。わたしは日本語以上に英語をわかるわけがないので、マジックワードに引っかかりやすい。そういう意味で、日本語を大事に作品を作る、がいつも抱えているテーマである。

 

だから、だから。肯定されている感じがした。うれしかった。小さな接点でしかないけれど、これでいいかもって思えた。

 

それから、「道」と「花束を君に」が好きだった。特に、「道」は生きるとか死ぬとか、だれか大切な人の姿を描いていて、わたしが今時間を割いている課題にとても寄り添っていた。わたしが考えたいことを支えてくれる感じがした。今やテーマソングになっている。どんなにやりたいことをやっているとはいえ、追い込んでいるが故にどうしても心が弱くなるときがある。そういうときにこうやって縋ることのできる音と言葉があることがどんなに安心できることか。

 

雑誌を手にして、すぐ、ああこれは、アルバムを、実体として、つまりは円盤として手にいれなくてはならないなあと思ってCDショップへ行った。リリースされてから2週間は経っていたと思うので、後追いだけど、久しぶりにこんなに満たされた買い物をしたなあと思ったよ。聞きしにまさる、宇多田ヒカルはすごい人だ。やっぱりそうなんだな、と突きつけられたとある日の話でした。

 

 

ちなみに、マリーアントワネットの嘘、買わなくては!って思ったのはフリーペーパーで目にした時から一目惚れしていたからだと思う。まだ時間がなくて読めてないけど、わくわくしてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、これ。日本語の話したあとでなんだけど、参考資料。

 

 

梅田に行って、思ったことメモ。

 

わたしはわたしの大学で良かったなーって思った。あんまり不満はない。他大の作品を見ながら、やっぱり心から好きといえるものは少なくて、わたしの同期たちの作品の方が好きだって思えた。どうも古臭くて、図面書くことにばかりこだわっていて、プレボの彩度めちゃくちゃに低いし、フォントもめちゃくちゃちっちゃくて視認性が悪すぎるけど、やっぱり質はいいと思う。小手先でごまかしたくないって思っていて、純粋に図面がかっこよくあることにこだわっているような感じがする。これはわたしが思っているだけかもしれないけど。やはりわたしは建築は図面だと思っているから!!!

 

パースやレンダリングはいくらでもごまかせるんだよ。なんとなくかっこいい「風」になっちゃう。でもそれって本当にかっこいいの?っていつも思う。それらしいものがそれらしいと認められる世界は好きじゃない。3D立ち上げてパパパって切ったら平立断できちゃうのも素晴らしいとは思うけど、それってお手軽過ぎない?(まあ自分自身がいろいろ言える次元に到達しているとも思えないので戯言くらいに思ってもらえればいいですけど)

 

ようはわたしはどちらかというと古臭い人間で、技術の発達とともにお手軽志向になっているのがあまり好きじゃないんだと思う。映画も然り。十和田と青森県美行った時も、十和田のことあんまり好きになれなくて、いいの?ガラスバキバキでいいの?ってずっと思っていた。壁厚がけっこうあって、RCで、ドスンっていう感じが好きだ。地面から生えているような感じが好き。離れられない感じが好き。だから青森県美の、三内丸山的な、なんだろう、土っぽい質感が残されている感じが好みだった。(まあプランが新しくないとかなんとか友人には言われたけど)内観パース的にもけっこういい感じだったと思うよ?あれ、そんなことない?

 

話は戻るけれどしかしまあ、わたしが「伝える」ということにこだわりたいのなら、やはりもう少しデジタルの技術は獲得したほうがいいし、視認性にもきちんと配慮をすべきだなあとは思った。あとは何度でもいうけど、絵を描くことのハードルが下がらなければ未来はない。図面で思考することは捨てたくないけれど、秋は完成度を高めるための努力をしたい。んー、提出要項を満たす前に伝えるために必要な素材をそろえた方がいいのかもな。そろそろ必要図面にかかる時間も掴めているだろうし。多少リスクを負ってもいいのかもしれない。(結局いつも図面で伝えてなんぼやろ!!!って結論に至ってしまいそうだけど。)やるべきことの順位付けが何より大事だと思うわけです。

 

なんのはなしかね、これ。

娯楽の尺

 

もともとテレビって、3分、30分、1時間、2時間とかいうサイズのコンテンツの集まりだと思うわけですが、それが今や30秒や140秒というもっと細かなサイズに刻まれて繰り返し消費されていくようになったんだなーと思う。1時間も画面を見続けられない現代人たちはもっとお手軽でお気軽な、簡単な娯楽を欲している、らしい。映画界も同じで、長尺の映画は見ている方に負担になるので短くしましょう、みたいな風潮がある。できるだけ尺を減らして、短時間で得られる娯楽へと移行している。その代表が「君の名は。」で、それに対峙するのが「リップヴァンヴィンクルの花嫁」かもしれない。

 

片や、ワカモノに受け入れてもらいやすくするために尺を削り、早い展開で満足度の高い作品を目指す商業映画。片や、「この作品を見に来た」層を捉えようとする、映画の芸術的側面を継承したい芸術映画。

*1

ともあれ、娯楽の「長さ」だけでこんなに意味合いが変わってくるのだなーと思うと、面白い。

 

そういえば、2000回ドキュメンタリーでコウちゃん(堂本光一さん)も言っていた。一分でも一秒でも、時間を削りたい。遠くから来てくれている人が新幹線の時間に間に合わなくてはいけない、と。時間短縮がお手軽かはさておいても、売れるためにはそういう努力が必要なのかもしれないなー。コウちゃんが言うならそういうことな気がするー。やっぱりちょっとさみしいけれど。

*1:いや、もちろん映画に興行は大事ですし、お金が動くっていうことはすごいことですし、たぶん必ず考慮に入れなくてはならないことなのですが、やはり映画はそれだけではないって願ってしまう。どんどんお手軽一辺倒になるのはできればやめていただきたい。

この世は二人組ではできあがらない

 

一対一の大きな愛があることと一対百の小さな愛の積み重ねがあること、どちらが幸せだろうか。誰か一人に愛されたいのか、たくさんの人に愛されたいのか、巨大なエネルギーを得て安心したいのか、少しくらい欠けても不安にならないでいたいのか。

 

わたしはけっこう一つの愛に依存することはおそろしいことだ、と思う。失いたくないからだ。いろんな人に、少しづつ愛されて、その愛に支えられて、生きたい。そういう小さな、目に見えないようなことに、気を配って生きたい。

 

この世は二人組ではできあがらない。この世界に、むやみやたらに溢れる二人組が、どうして二人組として成立しているのかを知りたい。どうして三人組じゃあ成り立たないのかを知りたい。二人組になるにはなにが必要なのかを知りたい。二人組の多くがなぜ異性同士なのかが知りたい。ふと、思ったりしないのだろうか。なんでわたしは「男」が好きなんだろう、とか。どうして「男」しか愛せないのだろう、とか。いや、別に「男」である必要ないのではないか、とか。

 

 

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

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