『Endless SHOCK』がまなざす時代と社会:芸能のサステイナビリティへ向けて
※この文章は、2024年5月の文学フリマで頒布したSPBS批評ワークショップ2023批評論集『あなたの言葉を聞き、わたしの言葉を書くために。』に寄稿したものを一部加筆修正したものです。
- 1.『Endless SHOCK』はどのようにして生まれたか
- 2. 演劇が25年「続く」とはどういうことか
- 3. 変わりゆく "Show must go on" の持つメッセージ
- 4. 変化を支えるいくつかのディテール
- 5. おわりに:『Endless SHOCK』を取り巻く現在とこれから
ミュージカル『Endless SHOCK』は、ショーを続けること、ショービジネスを続けていくことを描いた演劇作品である。劇中で繰り返される主題であり、カンパニー(=劇場の仲間たち)が唱える標語がある。
"Show must go on" =「何があってもショーは続けなければならない」。
「何があっても」「続けなければならない」......本当に?何があっても?舞台上でどんなトラブルがあっても客にそれを感じさせずに、平然とした顔と臨機応変な対応で、幕が下りる最後の瞬間まで演じきりなさい、という演劇界の不文律は、現代の現実世界に置き替えてみると随分と無理な要求だ。心身を壊してまで、安全を犠牲にしてまで、「続けなければならない」ことなんてほとんどない。
『Endless SHOCK』という作品は、従来の演劇界に根付いていた、「続けなければならない」というストイックな"Show must go on"の概念の定義を、「続けていくためには、時には立ち止まることも必要である」というところまで押し広げた作品である。である、というよりは、そのように変化させてきた、という方が正しい表現かもしれない。2000年の初演から流れた月日は25年。25年間同じ演目をたった一人の人間がシングルキャストで上演し続けるという狂気のような所業の中で、主演でありながら脚本・演出を担当する堂本光一その人こそが物語の持つメッセージを「変化」させてきた。
私が『Endless SHOCK』を長らく追いかけ続けてきた理由のほとんどは(最近になってようやく気づいたのだが)、自分自身の強者性とその強者性を持ちながらにしてどのように弱さを認めていくことができるのか、という葛藤を作品のなかにみることができるからである。舞台の座長、演出家、プロデューサー、映画監督、指揮者、そして建築家。さらには一般企業やありとあらゆる組織においても排除することの叶わない大小様々なピラミッドの頂点に立つ人。集団でのモノづくりをつかさどる人間が、その推進力を失わないままにどうやって自身の権威性と折り合いをつけていくのか、ということが自分自身の問題と不可分であるからこそ、この『Endless SHOCK』という物語が描き出す変化や自省から目を離せずにいる。
1.『Endless SHOCK』はどのようにして生まれたか
舞台『Endless SHOCK』の起源は、2000年の帝国劇場にて初演された『MILLENIUM SHOCK』にある。『MILLEMIUM SHOCK』は、ジャニー喜多川による構成・脚本・演出で、その頃から2024年の現在まで主演を務め続けているKinKi Kidsの堂本光一は当時21歳だった。その後、2005年にジャニーの手を離れ、堂本自身の意向によって脚本が大きく見直されたことにより、現在の『Endless SHOCK』というオリジナルミュージカルに整えられた。以来、本作は、コロナ禍を期に制作されたスピンオフ作品『Endless SHOCK -Eternal-』を含めて2023年までに通算1986回の上演をした日本で一番のロングラン作品である*1。
2. 演劇が25年「続く」とはどういうことか
演劇というものは、時間を閉じ込めない。それこそが、映画や文学と一線を画す強みであり、弱みでもある。映画や文学は、その時代性を真空パックする。社会や受け取り手がどれほど変化しようとも、作品の内部はほとんど変わらないままであるから、観返し/読み返したときに感じる変化はその作品の外側にあることが多い。一方で、演劇は、時間の経過とともに演者も変わり、観客も変わり、社会も変わる。同じものは何一つない。ほとんど何も、保存されない。
『Endless SHOCK』の凄みであり、面白さは、たった一人の人間を中心に据えて、そうした演劇ならではの「変化」のすべてを受け入れてきたところにある。そもそも、20年以上続くコンテンツが稀有であるうえに、主役に留まらず、構成・演出・脚本・音楽・照明といった演劇要素のほとんどすべてが同一人物によって形作られ続けているという話は本作の他に聞いたことがない。座組や演出を変えて再演される名作ミュージカルや演劇とも異なるし、「続編」が作り続けられるドラマやアニメともまた性格を異にする。同じ人間が同じ時間軸の同じ世界観を繰り返し描き続ける。たとえば映画『リバー、流れないでよ』やドラマ『ブラッシュアップライフ』のようなタイムリープもののようである。幾度となく同じ時空を再生するなかで、新演出や新技術といった技巧面の進化だけでなく、時代のうつろい、観客の価値観の変化、さらには座長でありながら演出家である堂本自身の変化を色濃く織り込んできた。
3. 変わりゆく "Show must go on" の持つメッセージ
3-1. 劇中で描かれる変化;作品のあらすじと2つの意味の"Show must go on"
毎年、映像・演出・音響・楽曲・照明・衣装・セリフ...あらゆるディテールに微修正が加え続けられている本作であるが、最も重要な変化は"Show must go on"という言葉がもつメッセージの変化である。
本作の1幕は、主役のコウイチと二番手役のライバル*2の2人のすれ違いを描いている。舞台上のセットトラブルにうまく対応できずスタッフを叱責するライバルに対して、客に気づかれないように臨機応変に振る舞うことこそが「ショーを続ける」ためのプロフェッショナル精神であるとコウイチが諭す。常に完璧を追い求め、高いプロ意識でカンパニーを引っ張っていくコウイチと、その背中を追いかけるもうまくいかず、フラストレーションを溜め、毎日のように演出の変更を命じてくるコウイチのせいで本来決められたことをきちんとやる余裕もないと他責するライバルの対比がある。1幕の最後には、すれ違いから生じた事故によってコウイチは命を落とす*3。2幕は、コウイチとライバル、そしてコウイチを失ったカンパニーの反省・和解・再生が主題である。図らずもコウイチを殺してしまったライバルの自責だけではなく、自分が前を走っていればカンパニーの仲間は自ずとついてくるだろうと思ってコミュニケーションを怠ったコウイチ自身の内省が語られる。
1幕で「開けた幕を無事に下ろすまでショーを続ける」ことに焦点を当てていた近視眼的な"Show must go on"は、2幕においては「将来に渡ってショービジネスを続ける」ためには何が必要かというより長期的な視点へ遷移していく。演劇という約3時間の時間を通して、観客たちは「何があってもショーは続けなければならない」という言葉を「何かを続けていくためには、時には立ち止まることも必要である」という意味に読み替えることができると発見する。
3-2. 時の流れがもたらす変化;2つの"Show must go on"
1幕と2幕のもつメッセージのバランスは、『Endless SHOCK』初演の2005年からずっと同じだったわけではない。年を追うごとに1幕より2幕の持つメッセージが濃くなり、現在の演出がある。特に2010年代後半からは2幕のもつ内省の色が強くなった。
堂本は、2005年頃の脚本について、「『SHOCK』で演じているコウイチという人物は、現行の脚本がつくられた2005年時点では非の打ちどころがない"スーパーマン"だったんです。舞台に立つ者としてあるべき精神をそのまま注ぎ込んだ、いわば僕の理想像。」*4と述べている。「何があってもショーは続ける」という言葉の背景にある、「完璧でなければならない」「止まることは許されない」「弱点は見せない」というようなマスキュリニティが、本作品における主役の人物造形の出発点だった。何を隠そう、堂本光一という人自身が持つパブリックイメージ自体も「完璧主義」で「名実ともに売れている」「王道の王子様的」「男性トップアイドル」そのものだったではないか。
彼は、先のインタビューを次のように続けた。「でも自分の実年齢が役の年齢を超えたことで、未熟さや弱さが見えてきて、そこを表現したくなりました」。同じ脚本を同じ人物が20年演じ続ける妙がこの言葉に現れている。観客が歳を取るのと同様に、演者も歳を取り、演じている役への解釈や込めたいメッセージが変わってくる*5。
1幕のコウイチは、ある意味で自身の若き日の姿の投影であろう。「その日のショーを続ける」という視点に立って、ライバルに対しても「周りが見えていない」と声を荒げる。一方で、2幕のコウイチには、経験を積んだ現在の視点が織り込まれている。「立ち止まった奴は、切り捨てられるんだろ......」とこぼしたライバルの本音に応答してようやくコウイチ自身も自分の弱さを認める。チームを健全に保つということこそが、長期的に「ショーを続けていく」ための重要な基盤だ。仲間を思い、コミュニケーションを取り続けていかなくてはチームはついてこない。「周りが見えていなかった」のは、他でもない自分自身だったと認める。
こうした「弱さ」の受容・肯定が、次第に色濃く描かれるようになったことに、私は強く感銘を受けている。世の多くの男性にも身に覚えがあるであろう「マスキュリニティ」からの卒業だと思えたからである。特に、男性アイドルとして長らくトップに君臨してきた、そして座長として・演出家として・脚本家としてこの演劇の最高権力を握ってきた人間その人自身が「弱さ」を受容する演出に取り組むということがとても新鮮に映った。
3-3. "Show must go on"は社会をどう映し出すか
こうした劇中の変化と伴走するように、ショーを「続ける」ことを問ういくつかの外部要因もあった。まずは、2011年3月11日、東京も大きな揺れに見舞われ、安全面を考慮して二幕の幕が開けられなかったこと。次に、2015年3月19日、大道具(LEDモニター)の転倒事故によって舞台上で怪我人を出したこと。それはまさに劇中のアクシデントに重なる情景だった。「それでも本当にショーは続けなければならないのか?」と自問しながら、「劇中で"Show must go on"の精神を伝えているのと同様に、起こってしまったことを受け止めつつも前に進むことを考えたい」と翌日からまた公演を再開した*6。そして、さらにはコロナ禍。誰かの心を救うために、ショーをつくり続けたいという理念は変わらなかったが、息の長いエンタメを作っていくためには、時に形を変える必要もあるとの判断に迫られた。結果として、フライングなどの大がかりな演出を減らしたスピンオフの制作や映画館での上映、インスタグラムのライブ配信の実施など新しい取組に挑戦することとなった。
作品の内側で何度も響き渡る"Show must go on"の精神は、その外側の社会における「なにを続けるべきか」「どのように続けるべきか」「続けるためには何が必要か」「本当に続ける必要があるのか」とサステイナビリティへの問題提起と共鳴していた。
コロナ禍の舞台制作発表において、堂本は、「この言葉は、不思議とその時の時代によって響きが変わってくるんですよね。昔はけがをしようが何があろうが、待っているお客さんがいるから絶対に何があっても幕を上げなければいけない。幕を上げたら何があっても幕を途中で閉じるようなことがあってはならないというような意味がすごく強かった。でもそれが、つまずいたときに何ができるのか、つまずいたときに後ろを振り返ってみて、そこから新しいものが生まれていく、という風に時代と共に自分の中で"Show must go on"のニュアンスが変わっていきました」*7と述べている。なんだか自然と言葉の持つ意味が変わってきたかのような物言いだが、時代に合わせてメッセージをチューニングすることを怠らずにきたからこそ、時代から取り残されずに20年上演が続いているのだと強く感じる。
現在の『Endless SHOCK』における"Show must go on"の理念は、今や「何があってもショーは続けなければならない」という強者的な立場を取りはしない。劇中終盤のシーンで、カンパニーを見守る劇場のオーナー役が、死にゆくコウイチと観客に向けて「疲れたときは、休めばいい。迷ったときは、立ち止まって振り返ってみればいい。」と、語りかける。特に2010年代後半の『Endless SHOCK』は、働き方改革を始めとした様々な世相を映す鏡のように、持続可能なエンタメの在り方の模索を始めたのだった。
4. 変化を支えるいくつかのディテール
4-1. 管理職と若手のメンタルヘルスの話としての『Endless SHOCK』
持続可能なエンタメの在り方を問いながら、同時に本作は組織の在り方についても言及している。一つの「劇団」というショービジネス世界の話でありながら、これはさながら一般企業の管理職と若手社員の関係性にも置き替えられる物語だ。
座長であるコウイチが、後輩であるライバルに殺された原因のひとつは、ディスコミュニケーションだった。コウイチは思い描いている次のショーのアイデアをぽんぽんと提案するくせに、その背景にある思いや、カンパニーとしてどのような未来を思い描いているのか明確に説明をしなかったし、二番手であるライバルはそんなコウイチについていけず、劣等感を感じていることを誰かに相談できる環境になかった。ヒロインであるリカは盲目的にコウイチに思いを寄せていたし、他の後輩たちもみなコウイチに憧れを抱いていた。二人は同じ孤児院で育ち、言葉にせずとも何でも伝わると思ったまま大人になった。しかし、コウイチもライバルも、結局は自分の弱さをうまく吐き出すことができない。
こうして見てみると、現代社会においてハラスメントやメンタルヘルスの問題が山積するような会社組織の構成のようである。ホモソサエティに根差し、強がりを積み重ねてしまう。そして、人手不足なのか人事の適正配置がされていないのか、プレイヤーがマネージャーを兼務することになり、マネジメントがおろそかになってチームがバラバラになっていく。私はこの物語を見るたびに、コウイチと対等に話し合える才能が一人でもいれば、もしくはチームのマネジメントを専門として気を配れる人員配置がされていれば、こんな悲劇は避けられたのではないか......とありもしないパラレルワールドに思いを馳せてしまう。
しかしながら、ここでも一つ興味深い分岐があったことを評したい。2015年の演出の変更である。カンパニーには、ライバルの他にも同じ孤児院育ちの後輩たちがいる。基本的に皆コウイチに憧れており、コウイチとライバルの不和の中でもコウイチ寄りの姿勢を見せていたのが従前の演出であった。しかし、その年のキャストの改変も手伝ってか、後輩の一人に対してコウイチが「(ライバルの役名)が何を言ってもお前だけはあいつの側にいてやってくれ...」と頼むセリフや、尊敬する先輩二人の仲違いを悲しく思い戸惑う最年少の姿が追加して描かれるようになった。カンパニーの中に味方を失いかけたライバルのことを、コウイチは裏では気にかけて手を回していたという様子が描き込まれたのである。
最終的にはそうした存在も空しく、物語はいつも通りの凄惨な悲劇に向かうのだが、ただ単に「何も分かっていなかった」「まったく周りの見えていなかった」管理職ではなく、わずかでも気にかけていたという救いが描き込まれることによって、それでも助けることができなかったという悲しさを増幅させる演出となった。この劇中では本当のメンタルヘルスケアには届かなかったものの、このほんのわずかな脚本の改変もまた現代社会の組織の在り方への提言にうっすらと補助線を引いている。
4-2. 『Endless SHOCK』が描く男性社会の中の女性 その課題と希望
男性中心的な演目の中で女性の役がどのように描写されていくか、という点についてはまだまだ遅れを取っている部分もある。カンパニーで唯一の女性であるリカは、他の男性キャスト陣とは異なり、演者によらず「リカ」の名前で呼ばれ続けてきた。「リカちゃん人形」を想起させる「リカ」という名前からもわかるように、演者が誰であるかということよりも、一般化されたヒロインそのものという表象の役割を担っている。
リカを中心にこの話を見つめれば、コウイチという精神的支柱を失うことでそこから卒業し、自立していく物語といえる。前半では「私は何があってもコウイチについていくから!いつだってそうしてきたから!だって、それしかわかんないし......」「私はコウイチについていくだけで幸せなの」と、三歩下がってついていくようなクリシェで慎ましき女性像だったリカは、物語終盤においてはコウイチの死を一番に受け入れるしなやかさを持たせて描かれている。リカの成長と自立の物語として読み解きながらも、死を受け止めきれずに狼狽える男性陣を包むようにしてカンパニーを立て直す様は、結局女性がケアの役割を担わされているようで空しさが拭いきれない。
女性の描き方については課題も多いがフェミニズムの文脈のほとんどを排してきた同事務所の舞台演目と比すればいくらかの前進もある。2012年の神田沙也加の抜擢にあわせて、リカが中心となって歌う「ONE DAY」という楽曲を追加し、従来三角関係を機能させるための役割に終始していたリカの心情描写にも力を入れた。さらには2013年、劇場オーナー(リカの親)役に前田美波里を起用。それまでオーナーは男性キャストであったために、リカはアンサンブルを除いてたった一人の女性キャストであったが、前田がオーナーを務めることにより、初めて母と娘という女性同士の連帯を描き込むことが可能となった*8。
その後も母と娘のリプライズ楽曲が増やされ、いつしかはただの「ヒロイン枠」であったリカを複層的な人物として描いていきたいという心意気が伝わってくる。いつまで経っても「リカちゃん」の役割のままでは「フェミニズム」を語るにはほど遠いが、そうした題材のすべてを置き去りにしているわけではなく、少しずつ前進し続けている。
4-3. 自己矛盾を包摂すること 「終わりなき」舞台の「終わり」
タイトルである『Endless SHOCK』=「終わりのない衝撃」、"Show must go on" =「ショーを続けていく」からも分かる通り、基本的には「終わりがない」ことを作品の背骨に据えていながら、私たちはその矛盾を知っている。人間は歳を取り、 体力は衰える。身体を使う演劇という仕事は、永遠に続けることはできない。いつか終わりが来る。劇中においてもコウイチは死ぬ。
また、特にこの演目においては、堂本光一というスターの交換不可能性が作品の強度を保っていたが、交換が不可能であるがために、作品を永遠に続けていくことができない・引き継いでいくことができないという特大の矛盾をも抱えている。いつまでも続いていくエンターテインメントを目指していたはずが、堂本光一に代わる人材が見つけられないが故に、作品は古典になれない。
そして、実際に、その矛盾した終わりが迫ってきた。25年続いた『Endless SHOCK』は現在の帝国劇場のクロージングにあわせて、2024年をラストイヤーとして幕を下ろすことが決定されたのである。建物が演劇の寿命を決めてしまうなんて皮肉なこと、と思ってしまうが、元々帝国劇場での上演に最も適した形の演出を考え*9、帝国劇場の持ちうる装置の力を最大限に活用した本作は、劇場の収益の安定化という点でも一役買っており、帝国劇場とあまりにも蜜月な関係にあった。こうして「終わりなき」舞台が、どうやら「終わる」らしい。
本作がどのようにしてその自己矛盾に答えを出そうとしているのか、という問いに対するヒントはコロナ禍を期に制作されたスピンオフ作品『Endless SHOCK -Eternal-(通称:エターナル)』にあると考える。本編の3年後、コウイチの死後の世界を描いたエターナルは、明らかな終止符に思えた「死」の先を描こうとする試みである。死後もカンパニーはショーを続けている。葬式から始まり、墓参りで終わる本作は「悲しすぎる」と評されることが多いらしいが(堂本談)、堂本自身は「希望を描いている」と言う。コウイチ亡き後も残された人間によってショーが続けられている様子を見せることで、『Endless SHOCK』失きあともエンターテインメントは終わらないと示したいのだ。「死」を「終わり」ではなく通過点として表現することで、「終わりがない」「続いていく」ということと「死」や「終幕」の間に感じる矛盾を、自ら越えていこうとしている。
5. おわりに:『Endless SHOCK』を取り巻く現在とこれから
昨年(2023年)、ジャニー喜多川の性加害問題が明るみになった。そのような状況下において、この演目を好きだと言うこと自体が憚られるようになったのは、いくら制作から離れて20年以上経ったとはいえ、この作品の出発点にプロデューサーとしての彼が密接に関わっているという疑いようのない事実があるからだった。イギリス公共放送BBCによる報道からひと月が過ぎた頃、公演のオープニングではいつものように「Eternal Producer」の肩書と名前が紗幕に映し出されていた。それらに向けて拍手を送る因習が、とかく苦々しく思えた。私は「拍手をしない」という消極的な選択をした。それしかできなかった。その頃の私は、決して許されることのない性暴力という行いと、好んで眼差し続けてきた演劇の間にどのように折り合いをつければよいのか、分からないまま戸惑っていた。今思い返せば、あの瞬間の劇場は、世間で加熱する報道から切り離された異様な空間だった。私のぼんやりとした意志の弱い戸惑いだけではなく、もしかしたら客席のどこかには存在したかもしれない異議や抗議、疑念さえも不可視化されて、喝采の中に消えていった。
しかし、悩める私にヒントを与えてくれたのもまた、『Endless SHOCK』そのものだった。"Show must go on"が、「何があっても物事を続けること」から「物事を続けるために時には立ち止まる必要もあること」へと意味合いを移してきたことを思うと、現実のエンターテインメントを取り巻く構造もそうでなければならない。性暴力の問題とそれを見過ごしてきた社会・メディア・そして私自身も、有害な男性性を多分に含んだ旧態然的な考え方と構造を見直し、持続可能なエンターテインメント文化の醸成へと舵を切る必要がある。性暴力、パワーハラスメント、長時間労働、メンタルヘルス、業界内圧力の問題、そのあちこちに有害な男らしさが根を張っている。誰かの苦しみを無視して押し通していくことやどこかに皺を寄せながら無理して続けていくということは、もはや現在の"Show must go on"がもつ理念にさえ反している。
結果として、堂本は、2024年の公演において「Eternal Producer」の肩書と名前を抹消し、24年間用いてきたジャニー喜多川の自筆によるロゴを一新することを決めた。これは表立った出来事のひとつに過ぎないだろうが、少なくとも二度とジャニー喜多川の名前を出さないという明確なメッセージとして伝わった。
では、私はどうか。一年前、「拍手をしないこと」しか選べなかった私は。
この批評を書くことは、私にとっては「立ち止まる」ことだった。世間と同じスピードで流されていれば、自分も正しい側にいるように思えていたのかもしれない。だから今、立ち止まって、自分の内側の戸惑いや葛藤、弱さを受け入れようとしている。問題の渦中に身を置きながらも見て見ぬふりをしてきた罪はこの批評文を書いて清算されるわけではない。しかし、社会や業界に根付くマスキュリニティは、女を自認する自分の内側にも存在している。まずはそれを認めることから始めよう。そして、性暴力の問題を面と向かって批判できなかった言い訳を、自分が好んできた作品に負わせることもやめよう。
『Endless SHOCK』を通して、社会をまなざそうと取り組んでいると、次第に「立ち止まる」とは「何もしない」ことではないと分かってきた。次の一歩を踏み出すために「考える時間をつくる」ことなのである。結局のところ、「続ける」ということは、「立ち止まること」「考えること」「また一歩を踏み出すこと」の絶え間ない繰り返しに過ぎない。
「何があっても続けなければならない」のではない。「続けるために、過去を見つめ、内省をし、弱さを認め、変化を肯定することを繰り返す」のだ。これこそが、25年間2000回に渡って繰り返されてきた『Endless SHOCK』の有り様そのものであるとするならば、私(たち)もそれに倣おうではないか。そして、いつかここで書いたことが間違っていると感じた日には、また考え、内省をし、変化を受けいれる必要があるし、そうしたいと願っている。

*1:2024年4月22日には通算2000回の上演記録を樹立した。
*2:本文章中は公式表現に沿って「ライバル」役と呼称するが、一般的なライバル的存在というよりも同じ孤児院で育った兄弟・兄弟子と弟弟子のような関係性をイメージしてもらうほうが分かりやすいように思う。また、堂本光一演じる「コウイチ」と異なり、「ライバル」は公演によって役者が代わることがあるため、各公演においては屋良朝幸なら「ヤラ」、中山優馬なら「ユウマ」、内博貴なら「ウチ」または「ヒロキ」といった具合に名称が変化していることを付記しておく。
*3:具体的には、ライバルが劇中で使う小道具の刀を「真剣」に換えておいたことによって、舞台上で惨劇が起きる。ライバルの意図は、いつも「Show must go on」とばかり言うコウイチを本当にショーを続けることが困難な状態に陥らせたいといったところであったが、舞台上で真剣だと気づいたコウイチはそれでもなお自分を斬りつけろとライバルに求める。(なんで劇場に「真剣」があったの?とか、いやいやそうは言っても斬りつけないだろ、とかそういうツッコミはなしでお願いします。)
*4:堂本光一, エンタテイナーの条件. 日経BP社, 2016, P.54
*5:『Endless SHOCK』で特に実年齢と役の年齢が意識されるのは、役者が自分の名前そのものの役名で役を務めるからでもある。演出もまた、彼らの個性や年齢を反映し、普段アイドルとして眼差しているキャラクターが役に重ねられる。劇はあくまでフィクションであり、現実のその人とは全くの別人格と謳ってはいるが、観客は現実とのメタ構造を意識せざるを得ない。若いキャストが採用され、堂本光一との年齢差が開いていくなかで、年長者としての実際のカンパニー運営の経験が作中に落とし込まれていくことは自然な流れであろう。
*6:堂本光一、事故受け止め決意「前に進むことの大切さ伝える」,スポーツ報知, 2015/3/21, (https://web.archive.org/web/20150322133438/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20150321-OHT1T50009.html) アーカイブ, 2024/3/30閲覧
*7:堂本光一「“Show Must Go On”は時代とともに変わる」『Endless SHOCK』が1800回達成, TV LIFE web , 2021/2/13, (https://www.tvlife.jp/entame/350157) , 2024/3/30閲覧
*8:以降、怪我による代役を除いて、劇場オーナーは基本的に女性キャストによって演じられ続けている
*9:帝国劇場以外では梅田芸術劇場、博多座での公演実績があるが、博多座においては『Endless SHOCK』を上演可能にするための劇場の改修工事を経て誘致した経緯がある。
贋作 桜の森の満開の下 パリ公演初日
ここに書くのひさびさだな。
初のNODA・MAP達成したので書きますやい。
NODA・MAP 第22回公演
贋作 桜の森の満開の下 パリ公演@国立シャイヨー劇場 Théâtre National de Chaillot/Salle Jean Vilar
ジャポニスム2018公式企画
解らんかった。
演出、空間構成、ツワモノ揃いの役者の演技、凄まじくて、圧巻だった。のだけれど、コンテクスト芸みたいな演劇で(そういう演劇好きです)、それをパリに持ち込むことの意味とどれだけ届けることができているのか、ということに頭を回しすぎて肝心の内容から完全に置いて行かれた感じがある。坂口安吾履修してないっていうのも大いにあると思うが。
「掘りますやい、堀ちえみ」誰がわかるっていうんですか。
客層は日仏ハーフハーフという感じで、笑いは起きるけど、わたしと彼らが同じ笑いを共有している感じはしなかった。日本語母語のバイリンガル向け、ないしは日本語の理解がかなり深いバイリンガルが一番面白く鑑賞できるはず。
戯曲を翻訳すること、日本語の綾や言葉遊びを落とさずに残すこと、文化背景のある単語を訳しきること。日本の現代劇を輸出するときの難所だと痛感した。
わたしは英仏もネイティブではないからわからないけど、英語のミュージカルをOrbで字幕付きで見るとき、ダジャレ的な訳の箇所は1つか2つに収まっているような気がする。主語動詞の整った言語体系故にだと思う。英語は単純で、削ぎ落とされた言語だ。一方どう考えても、日本語に含まれるコンテクストは多すぎる。特に語尾のパターンが多すぎると今回思った。あとは言い回し。言い方のクセ、というのかな。一人称なども。「〜〜ってな!」っていう語尾は外国語に訳せるのだろうか。「わたし」「あたい」「拙者」は外国語に訳せるのだろうか。
日本語について考える機会が多すぎて、こういうことばかり考えてしまう昨今。そういう機微がありのままに理解できることをありがたく思うような、「言葉」に満ちた戯曲であったなー。野田作品らしさ、なのだろか。
あとは情景も美しかった。満開の桜が真ん中にある構図、思い入れがありすぎる。人は桜のふもとで死ぬのだよな。そして布がかけられるのだ。わかりすぎる。シャイヨーの舞台は奥が深いし高さがあるので、プロセニアムとしての画角が大きいよなー。そこに紙吹雪が舞うのが最高だったのと、あとは布選びがうまいなーと。空の青布、桜の桃色布、幕間の金布。空気をふくむ造形まで設計されているようで、感動した。光は、逆光の金布と月夜の木漏れ日が美しかったな。
しかし、桜はピンク!というのは結構改めた方が良くて、もっと白に近い色になればいいのになーと夢想した。寒々しくて薄ら恐ろしい満開の桜は、たぶん白いと思う。
天海祐希の男役最高!
ままごと「わたしの星」
@三鷹市芸術文化センター 星のホール
そこには、消費されない少年少女がいた。眩しくて、儚くて、生きているなあという感じがした。消費されないで生きる高校生を見るのは久しぶりだったから、なんだかそれはそれで苦しくて、泣き出しそうだった。
10人の少年少女が板の上に立つ。誰かの旅立ちを、どうやって受け止めたらいいか考える。「わたしたちにとって2年は2年なんかじゃない。」明日わたしたちは9人になって、8人になって、7人になるかもしれない。来年、再来年、その次の年。同じ10人が、10人でいられるだろうか。一度しかない夏。大好きだから、ずっとこの人たちといたいから、だから早く離れなければ、という気持ちは痛いほどわかる。「この島は狭いからずっと2人でいられちゃうの。」わたしと、あなたが、近くにいたら、わたしはこの役割を負って、あなたはこの役割を負うのだろうなあと思う、ずっと。それ以外のことはやらなくてよい、という惰性が生まれる。「あなたはわたしがいなくてもなんでもできる人なのに、わたしがいるからあなたはなにもできない。」痛い。好きだから、あなたを思って、別れなければならないということ、この世界にはあると思う。「生徒会長、学級委員長、風紀委員長、図書館長...。長のつくものはなんでもやってきた。誰もやりたがらないから。」自分だって別にやりたくないのに、みんなに仲良くいてほしいから、楽しくいてほしいから、笑っていてほしいから、引き受けてしまう人。本当はやりたくないのに。本当は得意なんかじゃないのに。そして、本当にみんなが文化祭をやりたい、と思っているかも分からないままに、「みんな、わたしに付き合ってくれていたんでしょう、わたしが一人で騒いでいたのに付き合ってくれていたんでしょう。」言ってしまうのだ。意思決定の責任を負ってしまうと、何かを決めなければならないというプレッシャーに押しつぶされる。あなたとあなたとあなたとあなたが、みんな同じ人なんかじゃないのに、一つの選択肢に統合されなければならなくて、そんなことできるはずがないって分かっているから、誰かが無理しているのではないかと思って顔色を伺ってしまう。自信がないよね。「いつか一人になるのだから、一人にならなくては。」
「なんでできないって言うの?できるかもしれないじゃん」勝手に自分の可能性を閉ざさなくていい。「好き。好きなの。」女の子は女の子と手を繋いだっていい。「いつも笑っています。でもいつも楽しいわけじゃないよ。もともとこういう顔です。」無理しなくていい、けどずっと笑っていてもいい。「巻き込まれたんじゃないよ、自分で選んだの」自分の人生は、自分の選択の連続で、みんな自分の責任で生きている、わたしだって。「cosmic dance cosmic dance」歌って、踊って、円を描けば、わたしは泣いてしまいそうだ。tofubeats、tofubeats。
夏休みが終わろうとしている。八月が溶けた。別れを目の前にして、思うことのたくさんある舞台だった。10人とも、わたしだ。きっとわたしも、選ぶと思う、好きな人たち9人との別れを。
【わたしの星|公演情報】
— ままごと (@mama_goto) 2017年8月24日
本日8月24日[木]は19:30開演の公演です。当日券予定枚数は若干枚数のみ、以降はキャンセル待ちとなります。また場内空調がよくきいていますので、体温調節のできる羽織物をご持参いただくことをおすすめいたします。ロビーではブランケットもご用意しています。 https://t.co/DwmQW3jl1U
わが星
わが星を観た。何年か前に話題になっていた。
この世界は円環。
一分一秒を回して、日々を回して、地球を回して、生きている。
「世界が回った!」なんて慣用表現、どこかの界隈では日常語のようにして共通理解をもって使われるけど、あながち間違っていない。世界は一方通行に、前進する方向に、回り続けている。
そして自己と他者。
<わたし>と<あなた>は同じになれないということ。
わたしが投げかけた言葉はあなたに0.00いくつか秒後に届く。そのときあなたがまなざすわたしは、完璧に言葉を投げかけたわたしと同一ではない。リアルタイムだけど、そこにはいつも時差があって、完璧に生き写すことはできないなあ。
わたしを離れた言葉は、空中を泳いでいる。
・・・
わたしはもともと、大きな箱の、きらびやかな世界から演劇(というよりなんと呼べばよいのだろう、ミュージカルかショー)に入った人だけど、ここまで到達するんだなと思ってそれはそれでなんだか感慨深いものがあった。
・・・
頭の中で時報がなっている。歩む足が一定になる。一週間はこの音にとらわれる。
ルネ・ラリックの香水瓶
北澤美術館所蔵
ルネ・ラリックの香水瓶
アール・デコ −香りと装いの美−
井上邸を観に来たついでに。特別関心のあるテーマでもないのでつなぎようがないといえばないのですが、まあ先は長い人生ですから、この先何があるかわからないじゃない?
最終室の、アールデコがモダンへ展開した香水瓶は案外面白くて目を引いた。そして、同行者たちがこぞってその部屋で足を止める様子がわたしにはいたく面白くて、満たされた。何事にも深く関心を向けられる彼らは、いつもこうやって眼差しを向けているのだろうなあと思って、ジーンとくる。世界への愛だなあと思うのですよ、「これはおもしろくない」とつっぱねずに興味がなくても「見てみよう」という姿勢。
ちなみに、めちゃめちゃよかったです。レーモンドの井上邸。よい高崎でした。
ライアン・ガンダー −この翼は飛ぶためのものではない
@国立国際美術館(NMOA)
RYAN GANDER -These wings aren't for flying
アートに疎い民としてはたいてい知らない人なのだけど、こういうふうにひとりやワンテーマを拾い上げてくれるイメージの美術館だ、、。毎度興味を広げて帰れる。
帰りがけは駆け込みでNMOAへ。前来た時にキュレーションに惚れ込んだので以来、大阪にきたら行くようにしている
これまた過去の記録で失敬。
いい美術館なのである。いつもわたしに新しい視座をくれる。いつしかは写真展を観に来たんだったかなあ。記録どこ。
ライアン・ガンダー、作品自体への理解は深くないけれど、ああ、これは、思考法やプロセスの話かもしれないと思ったし、別階の2作ずつ並べていく方式は、賢くてずるかった。星つなぎの話だと思う。与えらえた何かと何か。その間に存在する、「何か」。人間は、探してしまうし見つけてしまうし結んでしまうのだ。そういう、人間の性質の話だと思う。ましてや誰か作家という他者が二つ並べたもの。「意図」をこじつけてしまうものですね。